君と小鳥と自転車と

ピンクのコザクラインコ、持たない生活、ときどき自転車

シンプルライフができる人、できない人

どうでもいい話。

シンプルライフとは、『ものを持たない暮らし』と概ね重なるようだ。

だが、これを鵜呑みにして、洋服を10着だけにしてみたり、闇雲にものを処分したり、というのは何かが違う。

何故なら、人それぞれに『必要なもの』の量は異なっているからだ。

 

簡単に云うと、こうだ。

ここに亜さんと伊さんがいたとする。

亜さんも伊さんも、所持品の量は同じ100である。

しかし、亜さんは日々100を使い切って生活している。

一方で伊さんは50だけを使えば生活していける。残り50は所有していることすら忘れがちである。

つまり、亜さんはシンプルライフに生きているわけであるが、伊さんはいわゆる『断捨離』できていない普通の人である。

 

話はかわるが、人生の何割かは「モノを探す時間」で摩り減っているそうだ。これもつまり断捨離できていない、普段は使わないモノを所有しているから(もしくは単に整理整頓できなくて)発生する無駄時間である。無駄なうえにイライラもする。いいことが何もない。

 

シンプルライフができる人は、自分のスタイルを確立している。自分に必要なものが何か、わかっているのだ。必要充分を把握しているからこそ、その中で吟味や取捨選択ができる。

シンプルライフにしたいけれどなかなかできない、という人(たとえば自分)は、自分のスタイルがないのだ。自分が本当に求めるもの、必要なものがわかっておらず、捨てるか捨てないかで悩んでしまう。

シンプルライフやミニマリズムをテーマにブログを書いている人たちを見ているとそれを如実に感じる。

彼らは自分のスタイルを確立しており、よく云えば他人に左右されない、わるく云えば頑固なのだ。

なので、誰かが強烈な断捨離を行った、と聞けば『へぇ』とはなるが対抗心を燃やすことなどない。彼らは自分の範囲内でより効率的なスタイルを探求して行く修験者もしくはゲーマーなのだ。

他人に対抗するのは『ミニマルな自分を褒めて欲しい人』である。そういう人は無理をして自分のスタイルを曲げているのでいつかは破綻して消えて行く。

 

 

シンプルライフができる人は、パズルのように自分の生活を組み上げる。ぴっちりしている人もいれば、隙間の多い人もいる。それぞれである。だが、そこには無駄がなく、それぞれの美学があり、念入りな選択があり、喜びがあるのだろう。

『ものを持たない』人がシンプルライフをできるわけではない。『必要なもの以外を持たない』人がシンプルライフを送れるのだ。それには哲学が必要である。